新しい世界の物語 〜聖なる豊かさ〜

新しい地球での生き方を綴っていきます

終わりと始まりの旅

2泊3日の旅から、超パワフルになって帰宅しました。
奈良十津川から始まり、熊野、そして伊勢の神社と自然を巡る旅。
日記調に旅の忘備録つづってみます。
 
 
旅立つ前は、体が辛くて悪寒までする始末、色んな意味で早く脱皮したくてたまらなかった。
そして、予感。
 
私はちょっと変わった体質(ウォークイン体質)で、数年前から大きな変容が内に起こっていて、
その魂の変容というものが心と体にどのような影響をもたらすか、今まで十分なほど体験してきていた。
 
そして、またしてもその予感・・今回がその最後になるだろうか、
それが完成し終わるまで、脱皮(変容・統合)を止められない、そう、10次元に行くまでは。
妙な直感だけども、おそらくそれが今回の旅の目的のはずだ、もしかするときっと・・・。
 
確信などもてず、突き進む自分に、本音はなんだってこんな時、旅に出ようと言うんだろ?
それも一人で、しかもトンデモナイ秘境に?いいじゃない、楽しみたいんだもの?
でも、まさしく修行コースだよ・・なんだって・・・  (以下同様、振出しに戻り、繰り返し・・)
 
その辺りはなんとなく土地勘があった。
独身の頃、ナビもない時代、当時はまさに『自分探しの旅』で、熊野の山奥に一人ぶらり旅をした。
その時の感覚と、懐かしい記憶。
あの時はこの崖っぷちカーブを曲がったらもしかすると、道は行き止まりで、天空に躍り出るかも・・
てな酷道中の酷道や車一台が通れるか否かの隧道とか(トンネルというより)を通った記憶がある。
 
それに比べれば、初日にナビが連れて行った山道もたいしたものではなかったし。
 
ただ、旅に出たら、不調のはずがみるみる元気(ゲンキン。)、ただ道々、直感のみに頼って
色んな惑いが出てしまった。誰もすれ違うこともない山道などでは母の顔が浮かんだりもした。
それ言わんこっちゃない!という言葉とか。
 
いつも、神社や山など、必要な場所に呼ばれると、必ずわかりやすい招待があって、同伴者があり、
有無を言わさぬ流れで私はただ、乗っていくだけというのが常だった。
 
今回は強引な自分の独りよがりだけで来たことを(それは全然だめなことじゃないはずだけども)、
罪悪感のような思いと、家族を思ってせつないような申し訳ないような感覚がぬぐえなかった。
そんな一日目。秘境の宿、上湯温泉に辿り着くのが目標の。
 
とはいえ、そこの温泉は最高で、大自然の中の秘湯をはしごして貸切で4つも入ったっけ。
肌にまとわりつくような、とろりとした温泉に毎日入る、若いおかみさんの肌はつるつるで、
化粧水いらずとか・・本当にいい湯でした♡
 
2日目の玉置神社では行き帰りのドライブウェイに緊張、その神聖な領域に神妙、大自然に向き合う時間に
何度も感動の涙、それでもまだこんなところまで、私はどうして来ているんだろうと、わずかに湧いてくる思い。
いいんだろうか・・などと感じていた。家がまだ気になる・・普段はこんなことないんだけれど。
一人だからかな。
 
2度と行かないかもしれない、玉置さんの社の写真を一つも撮ることなく、途中の木々に感動し、その写真を。
本殿参拝後は玉石社、そして山頂までどんどん行き、
山頂から駐車場10分の看板に惹かれ、人けのない道をずんずん歩き、そのまま無事駐車場へ。
 
イメージ 1あれあれ、写真とってない・・と思ったがあとの祭り。入り口だけパチリ。
写真撮っちゃいけないような雰囲気もあったんだよね~。
 
そして2日目、玉置神社と奈良の秘境の摩訶不思議な風景を抜け、
和歌山は熊野に出ると
景色もひろびろと開け、心も体もすっかり解放気分。
熊野本宮大社、その元になる大斎原、速玉大社へ。
 
旅の味・・・
この旅では節約第一、昼食も夕食も、山村のAコープみたいなとこに入って、土地の人が買う
値段の土地の味を探した。
そして、それを持って美しい景色を探し、そこで食べる。
熊野の道の駅隣は最高で、大きく開けた河原を眺めながら、3方向にそれぞれ河が流れ、橋がかかり
その向こうに山々が連なって。天気も気温も素晴らしくてずっといたい気分。
 
イメージ 2
 
一日目はかつて食べた素朴な、土地の味、めはり寿司に始まって、その後も鯖寿司、柿の葉寿司・・・
新宮では地元スーパーによって、安くて美味しそうなお弁当に目移りした。。。
超巨大海老天丼を翌日のお昼にしようと思ったら・・残念次の日はなかった・・・
 
ハワイで食べた、お砂糖をまぶしたドーナツ、マラサダのお店を見つけた時はラッキーと思った♪
翌日また寄って、お土産に。
 
2日目の宿は古いビジネスホテル。でも、心地よく熟睡。
 
3日目この旅の一番メインとなる、神倉神社に向かったのだった。
 
玉置神社に詣でる計画を始めたら、「新宮にはいっておきなさいね。」と内側が言い、
新宮ってどこ?新宮には一体何があるのかと探して見つけたのが神倉神社だった。
どうやらそこは知る人ぞ知る玉置神社さん以上に、今の自分に必要な場所らしかった。
 
熊野本宮や速玉大社、そして今回は行かなかった熊野那智大社などは前回に行っている。
今回は無駄に消耗しないため、直感の働くポイントだけ。
熊野本宮と速玉大社は、その元の社に向かうからその本宮も、という感じでうかがった。
 
そして、神倉神社での神秘体験のあと、伊勢神宮の外宮と、月夜見宮に伺う。
 
神倉神社詣での後の私は変化したのかもれない。
前日友人がわざわざ持ってきてくれた江原さんの熊野詣での神社本には神社詣では
ご利益や神秘体験など何かを期待してゆくものではない、と書いてあるし、私も同感だけれど、
今回のはとてもとても不思議だった。
そしてとても感動した。
神社詣でがそういうものだということを吹聴するつもりはない。
 
でも、時にはからいと、そしてタイミングというのがあるのかもしれない。
 
もう一つそのことを次のページに書きます。