新しい世界の物語 〜聖なる豊かさ〜

新しい地球での生き方を綴っていきます

明日はお茶会、そして気づき、よかったら聞いてください。

まずは明日のイベントのお知らせです

明日はマナの泉スペースにてパイのお茶会をおこないます。

のんびりゆったりした、お茶しながらのおしゃべりの会で、10時から12時までです。
最近ウォーターヒーリングに感動して、あらためて見直したパイウォーターの良さ。
長年愛用のパイのこと、お伝えしようと思ったのは間違いありませんが、そのため、パイのお茶会と銘打つならば、初回はパイの人に商品を伝えていただくものだと思い込んでいた私。

ですが、やってみてそういうのは全然私らしくない、と気づきました。
実はやる前から何か気張っていたら全然わくわくしない、抵抗感すら感じました。

あとになって、私はただ、ゆっくりまったりおしゃべりして、パイウォーターの水やお茶、お茶菓子で今気になることお話したりまったりするのがやりたかったのだとわかりました。

無料で気軽に来ていただく、という名目が必要で、ただ気軽に集まって頂くような何かをやりたかったのですね。
あえて言えば、出会いや交流会。

明日からは、そんなわけで、気軽な会です。無料です。
ちょっとばかり、おみやげがあります。

どうぞ、お気軽にいらしてくださいね。


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さて、今日は、最近学び始めたばかりのセラピーの勉強会を欠席してパソコンに向かっています。
雨の音が心地よく落ち着きます。

マナさんったらあきっぽいわね~と言われそう・・・かな?
私としては今は入れ込むより、頭を整理しつつ、内側から生み出す作業が優先と腹をくくりました。
セラピーの勉強の方は、少し期間をおいてから再開するつもりです。

沢山のやりたいことが目白押しでぎゅうぎゅうぱんぱんな頭を冷やして、今本当に肝心なことに向き合うことが必要。
それは、外向きより内側をみることでもあり、その、内側にある何かを外にうち出す作業にしばらくはうちこむことになるかと思います。

まずは全国の皆さんに、ハート塾やマナのボディワークをお伝えしたい、という夢を掲げてホームページを作成中です。

ホームページでは、これまでと値段設定も変わることがございます。
3月いっぱいまでは、このブログに載せる価格にさせて頂きます。(次に今のメニューと価格を載せますね。)

ホームページももちろん、私自身が全国向けに一皮剥けていかねばなりませんね。
色々気づかされながら日々すごしています。


それは、題して・・

今というときへの気づき

最近、『今というとき』を、毎回、真新しい瞬間だということに意識的に照準を定め過ごしています。

ところが、その度に古びた、さびた意識の目で同じ繰り返しの反応をしている自分にはっとさせられます。

日常の毎日、同じ繰り返しがある・・・
ようにみえるだけなのです。

本当に同じ繰り返しなのではない。

繰り返しているのは一見同じパターンにみえる事柄に同じ反応を繰り返してしまう、私という古いフィルターがあるのですね。
それは、いわばおそれ。
そして、慣れ。
そして私という存在への限界と決めつけ。

いずれも、この繰り返しへのあきあきした反応なのです。

まただ・・・とルーティーンに嫌気がきたり、嫌な繰り返しのパターンがきたなと思いそうになったらこれを思い出す。


真実あるのは真新しい瞬間、それは物事の核心のみ。

物事の核に照準をあてると真新らしい真実がみえてきます。

これが古い繰り返しのパターンから抜け出す方法だと、内側が最近私に伝えてきます。

真新しい時を生きるとはつまり、そういうことだと。

金輪際、古いパターンを生きるという幻想を抜け出し、真に新しい自分を生きよ、と
家の如意輪観音菩薩に手を合わせた時も、そう伝えられた気がしました。

金輪際の意味を調べると、仏教用語で物の成り立ちの底の底・・ということになりそうなんです、これが。
(よかったら調べてみてください。)

底の底、根底から新しくするとは、物のとらえ方からすべて新しくしてみるということ?かと感じています。

そうして新しいということが当たり前になるというか、瞬間瞬間に稀有なありがたさを感じていくというか、そんな新しい私に一皮むけようとしている気がします。

新しい自分=本当の自分=真の自分・・・さてそれはなんだと思いますか?
そんな新しい自分、楽しみです。


    

 
もうひとつ、お喋りさせてください。長いけど失礼します。


話すことって本当に大事と最近気づいたことです。

言葉は響きであり音であり、その音を耳に脳に、そして心に刻みつける言の葉(羽、刃)にすることだから、
本当に大切な、ど真ん中からの言葉を、それも取捨選択して使わなくちゃということです。」

私、長いこと言葉でつまずくことが多かったと思います。戒めねばと思います。

強い言葉で人を導くような、よい影響力のある人もいます。
優しい言葉で心癒す人もあるでしょう。

でも、その人の言葉が他を縛るものであったり、苦しめるものであったら、カルマ(物事の因縁、繰り返し)を生み出すことでしょう。

また、言の葉だから、葉っぱのように放って落ちて風に吹かれておしまい、落ちて腐っておしまいだというような、あとからあとから出てくる、どうでもいいような言葉もあることでしょう。
本当のところはそうではないと思いますが。

その葉っぱのような言葉の中に大切な真実を混ぜ込んだところに、どんな効力があるだろうか、となっちゃいますね。

マイナスな言葉、プラスな言葉であっても、無意識にのべつくまなしに喋ったら、差異なくなり、言葉の力、言霊のパワーが少なくなってしまいそうです。延々としたおしゃべりには気をつけないと。。。

でも、私は日常の付き合いってそういうものかもしれないと長い間思ってきました。
そういえばだらだらしゃべる、自身も含めて周囲にいっぱいありました。

ある時からふいにお茶会だとか、食事会とかがいやになっちゃってすっかりご無礼するようになりました。
そして何年間もそういうものには出ないことにしている、という理由でお断りしてきました。

今は逆に本当に会いたい人と会いたいとき、名目はつけませんが、会うことで生まれる必然性を感じて逆に私からお誘いすることが多くなっています。

人との出会いから生まれる必然性、例えば、この2人ならこのテーマ、でももう一人加わるとまったく違うテーマになってしまう・・・だから○○さんを仲間外れに・・ではなくある特定のひらめく人との『会う』行為が非常に重要に感じるので・・・
言葉というテーマからそれますが、人との出会いや会うという行為にはとても大事にすべき意味があると思い必要を感じれば自らセッティングもします。


では、大事な付き合いのお茶会とか食事会に行ったのですが、そこでどうでもいいお話をのべつまくなし喋る人にどう対すればよい?

と聞かれそうですが・・・いや、本音をいうと、これも最近の私のテーマだったのですが、

その人はその人の大事だと思うことを大事に言っているのだと思うんですよね。


その人の気づいたこと、発見したこと、怒れたこと、悔しかったこと、すごいと思ったこと・・そこで共感できることがあれば、自分の内側からの言葉が外から響いてきたと思ってもよいと思います。
気分よくあげたいなと今は思います。

でも、あるとき、それ何度目かの繰り返しだし、それ、あ、またいつもの愚痴に入った、お仕着せが始まった!などと感じて、どうしてそれに付き合わなくっちゃいけないの?と不快になれば、話題を変えるとか、電話をやめるとか、帰るとか・・します。

そんな人私の周りにいないというかもしれませんが、実際は色々な人がいるのですね。
異文化交流、だから世界は面白いのです。
ちなみに私の意見です。。。

ちなみに、第三者からみると、何人か、様々な話入り乱れる場ですっと無意識にテコ入れしているように見えるそうです。
みんなのおしゃべりを盛り立てているのだけど、その会のテーマからはずれないように必要な方に舵取りをしてるらしい。
「さすが!」とほめて頂きましたが、まさに
無意識ですから無意識にやっちゃてることですから、そうぞあしからず。。。