新しい世界の物語 〜聖なる豊かさ〜

新しい地球での生き方を綴っていきます

聖なる豊かさの提案

3月31日に『聖なる豊かさ』をテーマにワークセッションをおこないました。
初回のテーマは「安心」。
 
私、シェキーナも真の豊かさというものを内に外に問い続けながら、
結局全ては自分がクリエイトしているのだと改めて感じつつ、自分の奥が伝えたい
真の豊かさの在り方も、内側にあると感じました。
 
参加して下さった方々の感想を次のページに書きますね。
 
豊かさへの自己実現、現実実現法の為のノウハウが巷には様々、沢山あります。
 
○○ヒーリングで○○を実現した、
○○の手法で大金持ちに・・
夢が叶い、毎日がハッピー・・・・・etc.
 
だから、その方法があることに触れて多くの方が、では私も「~を目指そう」、「私の夢~を叶える」、
「では私の人生の目的やなりたい夢は~」・・・
そういう発想になってきます。
 
キラキラとした希望に満ちた生き方の見本のような
「~に向かってゆく、~になる」という進み方が
巷のポジティブ思考な生き方となっています。
 
それに対応する何かを叶える各種の手法本、実践本があります。
スピリチュアルなヒーリング系のものから様々な祈願法的なもの、念力や精神論的なもの、法則的なもの、
物理学者が書く量子学的なものまで、様々あります。
 
多くが「~を叶える」、「~になる」という考え方にもとづいたもの。
その方向で実践、叶える、実現するというあり方に私達は努力を始めます。
 
その根底には、その目指す概念が今自分に足りないとか、欲しいけど今ここにないということ、
にフォーカスすることになります。
その為に何かしらそのノウハウの法則にそった行動をしなくてはいけないことになります。
その為に勉強して、途中で断念して、努力が足りないから得られなかった・・私ってダメ人間だ・・
まるでダイエットにチャレンジとリバウンドをしているような追いかけっこ現象になります。
 
例え、成功論の法則にぴったりはまって成功し、夢叶ったとしても、人はさらに新たな「求める、欲する、
手に入れる」というあり方でそれらを外に求めるという姿勢をとり続けるのが世の常です。
つまりはミダス王のような果てのない魔法の手。
 
結果、どこまで夢が叶ったとしても「まだ自分は~が足りない、~が欲しい」という欲(=エゴ)
という尽きないエネルギーに突き動かされ、追いかけ追いかけられるゲーム・・それは
時間やお金、成功とか、形的条件的な何かを求め続けて、尽きせぬ状態をとり続けます。
 
仏教でいう、諸行無常な生き方とはいえないでしょうか。
 
ほとんどの実現法の多くは~を形にする、~な自分になる、という感覚ですから、
そこには自分という限られた個体があって、そこに付属していないものを外の世界に
求めて手に入れるという感覚です。
 
さあ、どうでしょうか・・
 
意識が実現しているこの世界で、私達はそうやって追いかけごっこの尽きせぬ実現化の
リアリティーを実現し、本当に芯から満足し、真の豊かさを感じることができるでしょうか。
 
それに、何かを求めようとする時、同時に向き合わなくてはならないストレスが平行し生じます。
それは努力とか、チャレンジとか、がんばる、と同時に、
ないという不足意識、自分に実現できる価値があるのか、難しい、などのストレス
という負荷も抱えることになります。
人によっては特定のテーマに向き合うと、叶えたい望みに向ける意識の割合より、
恐れの意識が生じ高まる方の割合が高いことさえあるのです。
実現化の意味ではむしろ、フォーカスすべきではない・・
 
その場合、実現化への努力の道すがら、恐れも実現しながらジェットコースターのような
進み方で進むことになるでしょう。
もちろん、探求するには面白い冒険の仕方ですが・・
 
シェキーナの聖なる豊かさワークでは従来の実現法ではなく私達の在り方もう一度見直しながら
それぞれの意識の状態にスポットをあててゆきます。
 
そして、意識を自分の外に求めるあり方ではなく、自分の中心に向ける在り方、
「~になる」でなく
「私はある」という、
既に全てと繋がっている、すべてあるという感覚や、今ここにある自分をよしと感じる
意識状態へと導く提案してゆきます。
 
一体、人を自分に足りない、とか、今の状態ではだめだとか、感じさせているものはなんでしょう。
実際お金が満足ではないという現実が原因だということはいえますが、
その現実は自分の意識がクリエイトしているのが宇宙の法則で真理の事実だとすれば・・・
 
それは過去世や幼少期など、過去の痛みからくる不安、だめだという感覚やトラウマ、
それとも自分とは感じられない、社会のあり方とか
何かが掲げる理想とするあり方と比べるという行為のせいでしょうか。
 
それぞれの抱える問題意識に焦点をあててゆきながら開放してゆくワークと、
 
あるがままの自己と言う存在の素晴らしさへの意識を高めてゆき
不安のない「安心」という状態から
「安らぎ」「大丈夫」
魂の、ただ「ある」という状態。
そして、存在の喜びや素晴らしさ、聖なる祝福の感覚、
すなわち存在の充足感=満足=ゆとり
そして喜び、溢れだすような喜び、妙なる豊かさと幸福感へと一緒に高め合ってゆきたいと感じています。
そして、全てが愛、宇宙、全てに感謝という感じ方、あり方へ。
 
だいたい、ここにある自分と言う存在は、ホントはいつだって決してだめな存在なんかじゃないですよね、
そう誰もがわかっているようで
その中のほとんどが自分を否定して生きている。
 
何か足りない、とか、何かが欲しい、もしくは何かでないと不幸だという心の状態もその自己否定の
ひとつですね。
 
でも、奥の方では全て存在するもの、全ての存在は素晴らしい・・そう感じる・・
それはやはりきっとそうなんですよね。
 
私達は人間・・様々なあり方を経験しながらバーチャルな体験の旅を続ける存在ですが、
この先どんどん形を様々にかえることもある、
存在。
存在・・・あるという風に造られた存在・・・
そして宇宙の一部、
宇宙に創られしあるもの。
その創造の主、すなわちサムシンググレートの一部、
だからこそ存在している、
 
素晴らしき、祝福されし存在なのですから。
 
つまり何度もいいますが
私達は今ここにあり、全てと繋がっている。
そして、何度もいいますが私達はあるだけで素晴らしいのです。
 
そして私達は内も外もなく、全体と繋がっていて体のどこもかしこも、その全部と一体。
死すれば土に還る、生命は天(空)に還る。
だけど、全てつ繋がっているからこそ、
今ある、は全てここにある、のです。
私達は体とともに意識だし、心でもあるし、命だし、魂だし、
そして集合意識(アカシック)、宇宙・・・
 
だからその「ある」自分をどこまでも感じること。
それは自分を認めること、ありのままに。
罪悪感で裁いていたら、それを許すこと、
ダメだしされ、条件付の自分にはっていたレッテルをはがしたりすることによって
尽きせぬ豊かさの泉は今ここ、自分自身の内にあるのです。
 
現実化の種は自分から外にあるものでないこと、
今ここに内側にすべてがあることを提案し、
現実を変えてゆく、
それが「マナの泉」主催、シェキーナの新しい豊かさの提案です。
 
その状態、「マナ(宇宙の生命力)の泉」状態、
あるいは無限への入口、意識の0ポイント、
こそが魂の自然なあるべき状態を現実化し、
自然体でいながら、真に豊かで幸せな様々なことが叶ってゆく状態だと感じています。
 
究極、「全てがうまくいっている」のを感謝してゆく、
 
けれど、それは○○だから幸せ、
○○が叶ったから今私はうまくいっている、という条件付けのあり方や豊かさではないことが
ポイントです。
 
どんな状態、出来事でもそれがかんじられる意識の0ポイントに到達した人は
自分の状態がどうであれ左右されず、安心し、満足しているだろうし、
その状態がアップだのダウンだの判断しない、
そして色んな人の色んな状態を安心して受け入れ、
大丈夫だと認めてあげて、さらにすばらしい状態を信じ祝福できるでしょう。
 
0というポイント(人生のリセットともいえる)に到達し、
新しい本当の、そして無限の自分(魂の自分)が無理なく自然に
魂の芽を吹き、花開くでしょう。
 
でもね、欲しいと思う、こうでなきゃと嫌だと思う欲やストレスみたいな
欲求(エゴ)にも実は大切な存在の意味があるのです。
 
そこを受け入れてあげて、ちゃんと認めてゆくと魂の真の方向がわかったりするのですね。
 
私達はあり方、「ある」を大きな大きな聖なる器でとらえてゆく必要がありますね。