手を合わせ、祈る心
娘の高校の作品展示会があるのを機に、先日、母と久しぶりに食事に行きました。
私の大好きな行きつけのカフェで、ヘルシーな野菜中心のランチを食べながら、おしゃべり。
いつも話し出すと価値観が違い過ぎてぶつかってばかりの母娘で、穏やかにおしゃべりが出来るとは思えなかった、ちょっと前まで。
以前の私が見たらびっくりしていたかもしれません。
育った世代の違いのせいか、
とにかく価値観が違いすぎると思い込んでいました。
それは、幼い頃から父にも、母にも感じていたことです。
ずっと私の思う愛情というものはもらえず、違う、ずれたもので示され、愛情がないとまで思っていました。
もちろん、子を持つようになって、ようやく少しずつ表現こそ違えども、少なからず愛情があったことはわかるようになったのですけど。
それでも、大事に思うこと、重きをおくことが全然違うと長年思っていました。
ところが、お互い年を重ねて、最近、私達親子の価値観の根本は似ていると感じられるようになりました。
先にそう感じるようになったのは父です。
父の感覚は禅宗が基本にあるので、話していてもとてもスピリチュアルで、学ぶことも多く、私のハートの空の世界観とも相通ずるのです。
一方、現実的な感覚の母とはなかなか折り合えない…と思い込んでいましたが、食事会で、今まで見えていなかった、新たな発見をしました。
それは私達にはとても大事な共通の価値観があったということです。
その一つは、幸せの定義。
何か豊富であったり、優秀であったり、特別なことがあるということではなく、つつがなく家族健康に穏やかに暮らせるというような、なんでもないようなことがありがたい、感謝なことだと思っていること。
そして、もう一つの私達母娘の共通点は、人には祈ることや、神仏を信じる信仰があることが大事だと思っていることです。
その感覚は、お互い長年の経験や、置かれた環境のせいからか、自然と感じるようになったことだと思います。
私達の目には祈り、信じる心を持つ人達は、守られているようにみえるし、何より、私達自身がいつも守られたり、導かれていると感じています。
いいことがあるようにみえる時も、悪く見えるようなことが起きている時でも。
そして、母は、こう言いました。
「うちには、あの人がいてくれるから大丈夫なの。
遥々遠くから荒波に揉まれながら、ちゃんと手や道具も失わずに来てくれた、凄いあの人がうちにはいてくれるんだから。」と言うのです。
あの人?
それって、あの仏様のこと?
母はまるで、長年一緒に暮らす、親しい家族の一員であるかのように、その仏様をあの人と話題にしていました。
笑っちゃいました。。
しかし、この感覚まで親子だったんだなあ。。
私は、お寺の実家を出た今、特定な宗教は持たないけど、スピリチュアルな感性を通して繋がった様々な聖なる神仏(マスター)や大天使に対し、祈り感謝はすれど、崇めるのではなく、いつも尊敬する家族や先輩、先生のような親しみや身近さを感じています。
母もいつもお供えを供え、身近にあり、常に祈り守られているのを感じるにつけ、まるで生きてここにいる家族同様に感じているに違いありません。
そんな私の実家のお寺には、母の言う「あの人」、とても神秘的な由緒のある観音様がいらっしゃいます。
その仏様は、如意輪観音という、幾つもの救いの手に救いの宝物を持って、様々な人々の様々な問題に救いを差し伸べるお姿の観音様です。
その古さも貴重な仏像ですが、この観音様の貴重さの由来はそこではありません。
一昔前、3世代くらい前のことでしょうか、熊野地方からこの観音様は、波に揺られて渥美半島の付け根の表浜に打つ寄せられたのです。
そして、その当時の寺の住職夢枕に立ち、
住職は驚いて蒲郡の檀家から寺に急ぎ帰ったそうです。
そして、当時はその観音様に噂をきいた人達が列をなしてお参りに来られたそうです。
今は、なかなか知る人ぞ知る存在で、うまく由来を伝えていないのが勿体ない仏様です。
母とそんな話をしながら、今年はこの観音様や、近くの神社詣での会を行う、一つの夢、目標が出てきました。
そういえば、以前にも一度皆さんの参加を頂いてお参りをしました。
あの時は、目的があって御厨神社詣でも行い、そのついででありました。
素晴らしい流れとなり、とっても素晴らしい、楽しい会でしたね。
さて、今年はどんな会にしましょうか。️
今回の一番の目的みたいなものは、すぐ身近なところに愛ある聖なるものがあり、守護や導きに感謝し、祈ることができること。
そして、それをありがたいと思うところでしょうか。
仏様、仏教はそういう部分伝えてくれる気がします。
いつも自分の足元からということで。
そして、身近な神社、氏神様にもそれを感じます。
今日、仕事後にやっと、私の今の本拠地である神社へご挨拶、やっと済ませました。
こちらには古い女神様がいらっしゃって、こう仰います。
「いよいよ新しく始めましょうね。」と。
私はなぜか不思議と、いつもここからスタートなのです。
大掃除をして、やっと準備が出来た私、というところなのかな。
そして、その後でお世話になっている、同じ町内の神社を2社、お参りしてきました。
いずれも雄々しい狛犬君達。
今年は勉強がてら様々なトライの体験の年になる予感です。