新しい世界が始まる前に言っておきたい独り言
この更新までに随分時間が経ってしまいました。
これは私自身が長い間、現実をさまよい歩いていたからだと思います。
このブログを通してあることを書くように内なる魂や、ハイアーセルフである女神アストレアからどんなに促されても、このブログを書くことが大事だとはどうしても思えませんでした。
そんなことより、日々を生きるために必要と思うことに従って必死に生きていました。
だって、この世界ではそれが当然、当たり前なのだから。。。
そうして、私は私が頭の世界で敷いたレールの上を行ったり来たりする慌ただしい毎日を過ごしてきました。
順調というか、色々あってもしなやかに乗り越えれるし、その術を知っていると思っていました。
基本、いい人との出会いにに恵まれて問題のあるような人間関係も魔法の言葉であれよあれよと乗り越えて。
それでも、何か壁にぶつかるように悩むこと、必要に迫られることがあって、内側と向き合うと、その度に再三、魂から必要な道を行くように強く訴えられる。
それが、おかしな話にきこえるけれど、「新しい世界について書くように、なぜならあなたは新しい世界から来たのだから。」と。
実はその記憶は多々思い当るのです。
新しい世界からこちらの世界にやってきたのはまだうら若き(にみえる)女性でした。
おそらくその人は私の前世群のうち、最重要な前世だったのかもしれないくらい、その人であった時の強い記憶が残っているのです。
その人はなんらかの使命を帯びてこちら側にやってきたということも覚えています。
ただ、それがなんだったのか・・・多分新しい世界(新しい地球)に関することだと思います。
じゃあ、そうならばと重い腰をあげてはみるものの。。
なのに、私はどこかでそんなもの、非生産的だし、非現実的だし、第一、一体そのことにどんなゴールがあるの⋯、という本音。
だって、どっちが幻想なの。
ここは現実。人間の世界。
そして、私は人間だもの。。。
そうして、私はまたいつもの振り出しに戻る。
気づけば内なる魂の訴えなどは脇にどけ、頭の私が良いと思う道、常識的でまともだと思える道を選び、目の前の忙しさに追われる日々を過ごしていました。
現実を生きるのにやっぱり必要なのはお金だから。
ずっとライフワークとして関わり続けて自分と切り離すことができないと思う、スピリチュアルの仕事は生涯ワーク。
それを仕事として時給換算すれば割がいいけれど、お金を稼ぐための仕事として向き合うとたちまち立ち回らなくなるのはこれまで何度も経験済み。
本当はこれが私にとってメインのライフワークだとわかってはいつつも、メインにするとなぜだか進まなくなる・・。
だから、生きるのに大事なこととして脇に抱えもち、他の仕事を日常のメインにという形で何年も過ごしてきました。
その間、思い返せば不思議だけど「大きい脇」という名前の土地で過ごしました。
あれもこれもと興味をもち、携わってきた仕事はいくつもありすぎて恥ずかしくて書けないくらい。
それに、どれもこれもメインの方にも何かを還元できるだろうと考えて携わってきた仕事でもある。
そして、次なる方向は若い頃の仕事経験から勝手に思っていた、「教えること」と「子供に関すること」に関しては時給という効率も考えて。
教えることは性にあっているようでやり甲斐も見い出せたけど、受験とか学力アップという点にはストレスも感じました。
そんな私が最終的に日常の中心に置いたのは児童福祉の仕事でした。
お金を稼ぐのに一日の大半を労働にあてるなら、好きで得意なジャンルで、そこにやりがいや学びまでもらえる可能性を感じたのです。
このジャンルに携われたことは大正解、振り返れば何度も導きビジョンにも何度も出てきていました(エプロンをした保母さんみたいな姿の図)。
障害のある子供たちの発達や成長に携わるこの仕事は、学びややり甲斐だけでなく、感動や喜びにも出会える素晴らしいものでした。
もちろん、大変さはその光の部分の倍以上あったように思いますが、ほとんどの場合、光の方がずっと大きく感じられました。
障害の軽い子も重い子も、そして明るい光を放つ発達障害のニューエイジチルドレンにも何人も出会いましたし、体の障害で動けない子、知的障害が重く話せない子も多くいました。
重い自閉症や知的障害で言葉のやり取りができなくても、彼らには考えがあり、感情があり、独自の自己表現があり、それは計算がなくまっすぐなのでした。
大人しい子もいれば、荒れたり、ひねくれたような表現をする子達の中にも触れ合ううちにその奥の気持ちが見えてくる。
それは大人よりもわかりやすく伝わってくるし、彼らはとても純粋な意識をもっていて、その部分で交流していくようになっていくから、言葉など交わせなくても触れ合い、遊び、共感し、笑ったり、真剣に向き合ったり、の日々。
私はこれで、お金を稼ぐための仕事として本当にやり甲斐のある仕事を見つけられたと思ったのです。
さらに児童福祉の仕事がオフのときにはスピリチュアルな仕事。
そして合間に家庭のお仕事。かなり、適当にしかやれませんでしたが。
障害児ケアの世界は時としてスピードが必要とされる分野でもあります。
手早くこなさないと、大変なハプニングが起きてしまうことにもなりかねない。
のんびり体質の私が柄にもなく、その場所を居場所だと信じ、何年か過ごしてきました。
ところが、2足のわらじ生活(本当はもっと?)も当たり前になってきたある時、突然もうこの世界は終了~と思う気持ちがやってきました。
直接の原因は最後に勤めた職場でのストレスで体調を崩してからようやく、
「あれ、私の生き方って何かおかしくない?」と感じるようになったのが幕引きの始まりでした。
福祉の世界にしばらく身を置くにつれて、理想を抱いてしまい、より良い場所を求めようとしたのがきっかけでした。
つまらない我欲が出たんでしょうけれど、それより何よりその世界や、フルスピードな生き方の世界そのものが私の本当の居場所ではなかったのだと思います。
仕事のジャンルがどうとかいう以前に生きる姿勢の問題。
生まれ育った時代背景、環境、親、結婚、子育てや家庭生活を経て、
色んな環境の中でこれしかないと思ってやってきた生き方に、なにかおかしい、変だぞとようやく思うようになったのです。
ずっと自分なりにあっちにもこっちにも動き回って一生懸命生きているのに、なぜだか、「これしかできない」とか、「ここまでで精いっぱい」みたいな強い制限の限界思考に縛られているのです。
最後の児童福祉の職場を退職することに決めてからも、頭はまだスピの仕事のサイドに福祉ではない別の仕事を見つけよう、などとうすぼんやり思い浮かべていました。
けれど、体の方は「頭が命じるよりも前にハートがやりたいと思うことをまず、することにする」という姿勢にシフトチェンジしていたのです。
体調を崩して退職するという理由が一つにはあったにも関わらず、引っ越しをし、そこで早速スピのお仕事開始。
ほどなくして退職を迎えると、まもなくもう一つソーホー用の仕事部屋を借り、スピリチュアルな仕事をメイン事業にするための展開をすすめています。
長年、仕事の変化はあれど典型的な動きしかできなかった私にしてみれば、ここ数か月、まるで軽業師のような動きで進んできました。
その上、皆さんに甘えるという技をいつのまにか行使できるようになり、(齢を重ねて不敵な中高年になったのですね。。)自分の裏ワザに呆れ驚きながらも、曲芸綱渡りは順調に進み。。。
そして、新しい場所での滑り出しも奇跡的だったのです。
まるでこれが答えだ、この道一本にすることが正解だった、とでもいうように。
じゃあ、これまでものすごい遠回りをしてきたのか、などと考えてはみても、いやいやそんなはずはあるまい、とも思う。
物事はそんな単純じゃないですよ。
なんだか、客足にもそろそろストップがかかってきているし。。。
おやまた壁?
結局、この先何度壁にあたっても、内側に促されることはおそらく、多分、一つのことなのです。
長年ずっと脇にどけて、無視し続けてきたことだけれど。。
この先がどうなるかなんてわからないけど、私はこれまでの経験史上、最も不安のない状態で今、このブログに立ち向かえている。
立ち向かうっていうのは大げさだけど、毎回雲をつかむみたいなことが目の前にあって、エイッと本気を出さないとまた脇道に逃げたくなるだろう。
でも、やっと自分の居場所らしいところに落ち着けて、穏やかな気持ちで向かえているのです。
これだけでも、ずっと大きな進歩なのです。
今まで私自身、発達障害のADHD的傾向があって、おっちょこちょいだし、色々と意識から欠落してしまう。
それにどれほど気忙しく多動であったかと思うし、それに比して本当に奥の大事なことはあまりやれてきたとは思えないし。
考えてみれば、現代人はみんな慌ただしく多動過ぎて、自己の内側を顧みる暇もなく、本来あるべき位置や本当に自分らしい生き方に向き合おうなんてしないでいるのが常かもしれないとも思ったりする。
さんざん慌ただしく生きてきた、この私が言うのも生意気ですが。
次からのブログでは、以前途中になっていたアリマタヤのヨセフの生涯について、私の個性あふれるスピリチュアルリーディングで紡ぎだしてみたいと思います。
なぜヨセフにこだわるのかと言えば、彼はかのイエス・キリストを埋葬し、イギリスに聖杯伝説をもたらした聖人であり、私の読み(リーディング)で私の前身(過去世)であり、私の人生にとても大きな影響をもたらしていると感じるから。
私は20年以上前に高名なスピリチュアル・リーダーにみてもらった宇宙名が「聖杯」だと言われたことがあります。
そもそも宇宙名ってなんだろう・・・。
だけど当時は「なぜ、私の宇宙名は聖杯なのだろう、一体、聖杯とは何だろう」なんてことが気になって仕方ありませんでした。
その頃、支持していた先生に尋ねると「なら、アーサー王の伝説を読みなさい。」と言われ、読めども謎はちっとも解けないまま時は過ぎていきました。
そう、前述の慌ただしく疾走するような日々を何年も重ねて。。
そして、今年に入って、私はスピリチュアルの仕事を進めるうち、特定の人には封印解放ワークをほどこす必要性を見つけて、呪詛や契約をはずしにかかるようになりました。
お客様が封印を解放をされていくのを見ながら、自分自身の小さい呪詛もいくつか取り外してきたのです。
ところが、自身にかかる厄介な契約がどうしてもはずせない。
はずせないようにヴェールにかかっていて全容が見えない。
前世における意識の大きな誰かが決めてきた強い祈念であり、契約ということになっているだろうとわかり、
さらにおそらくその犯人はアリマタヤのヨセフだろうと。
それらに気づいたのが今年の中ごろ。
ヨセフがその人生で祈念したことが私に大きくかかってきているから、いつもわからない形の促しがやってくるのだと気づいたし、結論づいた。。。
そして。。。
あらゆるタイプの呪詛や契約の中でもこれはやらないと解けないタイプの決め事だと私なりに悟ってきました。
そんなわけで、私の独り言みたいなこのブログ、再開しました。
興味をもって読んでいただければ幸いです。
多分、この先もっと不思議な独り言になるかと思いますが、よろしければお付き合いよろしくお願いいたします。